三代
み よ

宿場町の面影

須賀川から北に向かって延びる白河街道が大きく西へ進路を変える場所に、三代の宿場町が置かれました。道沿いには古い家が並び、宿場町の面影を残しています。

【1】白河街道沿いに妻入り民家が並びます。1899(明治32)年に磐越西線が開通すると、宿場としての機能は失われましたが、道の両側にくしの歯状に家が並び、宿場町の風情を残しています。
【2】それぞれの軒先に屋号を掲げ、宿場町の雰囲気を演出しています。
【3】白河街道は三代で大きく西(左)に折れ、会津若松へ向かいます。東(右)に分かれる道は二本松へ通じています。

白河街道の宿場町・三代は、天正18(1590)年、豊臣秀吉の会津入りのときに整備されました。江戸時代後期には80余戸を数え、その半数が旅宿または茶屋、半数が農業兼駄賃仕事に従事していたといわれます。いまも道の両側には入母屋造り、妻入りの家がくしの歯のように並び、往時の風景を伝えています。


宿場の南端近く。大型の民家が連なる


宿場の中央にある「吉野家」

三代宿はここから会津若松方面に続く福良宿、原宿とともに、「三代でそば食って腹(原)ふくら(福良)、滝沢峠ひと走り」という俗謡に歌われました。三代は街道の難所・勢至堂(せいしどう)峠を越えて最初の宿場町。ここのそばが、かつての旅人たちを元気づけたのでしょうね。


街道が西へ折れたところにあった大型民家


街道の裏道には蔵が並んでいた


【住所】
福島県郡山市湖南町三代
【公開施設】なし
【参考資料】
『福島県民百科』福島民友新聞社、1980年

2013年6月2日撮影


戻る