小荒井
こあらい

ラーメンブームを生んだ蔵

喜多方といえばラーメン。……もいいですが、やっぱり蔵です。全国に知られるラーメンブームも、蔵とは無縁ではありません。なにせ、蔵めぐりを楽しむ観光客が急増し、「休憩できる場所はないのか」とたずねられた市職員が、なじみのラーメン屋を紹介したことに始まるのですから。

【1】喜多方の豪農は2つ以上の蔵をもち、そのうちのひとつの蔵に座敷をつくりました。こうした蔵は「座敷蔵」と呼ばれ、いまだにご主人の隠居部屋や冠婚葬祭の場として使われています。
【2】蔵座敷がふつうの座敷と違う点。それは、囲炉裏がないことです。蔵座敷では置火鉢などで暖をとりました。
【3】豪華絢爛な内部に比べ、外観はあまりにも無骨。この、内と外の世界観のギャップがたまりません

小荒井は住所でいうと喜多方市一丁目、二丁目、三丁目に相当し、現在では「ふれあい通り」の呼び名で通っています。場所は、JR喜多方駅から北へ1〜2キロほど。ここに豪壮な蔵造りの家が並んでいます。


防火のための蔵造りの家々


甲斐本家。黒塗りの外観から、烏城(うじょう)と呼ばれた

「蔵造りの町」は全国各地にあり、とくに広く知られているのが川越(埼玉県)でしょう。しかし喜多方の蔵は、川越とは趣を異にしています。
喜多方では主屋を蔵造りとするのはもちろん、そのほかに蔵を2棟以上つくるのが一般的。そのうちひとつを納屋、もうひとつを「座敷蔵」としました。

小荒井には一般公開されている蔵座敷がたくさん。その中でとりわけ豪華なのが甲斐本家のものです。1917(大正6)年から7年もの歳月をかけてつくられました*。
広さは51畳で、これは喜多方屈指の規模。内部には繊細な違い棚、絢爛たる金箔の貼りふすまなどがしつらえられていて。紫檀(したん)や黒檀(こくたん)、ひのきなど、材質も一級品ばかり。いやはや、恐れ入ります。
*1914年着工とする資料もある


甲斐本家の座敷蔵。金箔がまばゆい

三十八間蔵

甲斐本家の蔵をしのぐ「喜多方最大の蔵」といわれているのが、嶋新金物店の「三十八間蔵」。3棟の蔵をつなぎあわせたもので、その名の通り全長は38間、70メートルにもなります。建設は1885(明治18)年。

それにしても、どこを向いても立派な蔵だらけ!
この蔵並みは1975(昭和50)年、NHKの「新日本紀行」で紹介されると一躍注目を集め、全国から観光客が押し寄せるようになりました。これが、今日の喜多方の代名詞である「喜多方ラーメン」を生んだわけですが、その経緯を新日本紀行の制作者、須磨章氏の著書『日本一の蔵めぐり 会津喜多方の迷宮』から引用させていただきます。


吉の川酒造。江戸時代から大正時代まで、6棟の蔵が林立


3階建ての若喜レンガ蔵。1904(明治37)年

〈蔵を観に来てくれてもだいたい二時間歩けば終わってしまう、もうちょっと観光客を足留めする方法はないものか……。観光バスの団体で来るお客さんたちの昼食をどこでしてもらうか……。(略)観光会社などからの、『どこでお昼を食べたらいいでしょう』という問い合わせに答えなければならない立場にある富山さん(当時の市観光係長、引用注)は困り果てて、いつも自分たちが通っているラーメン店に頼んでみた。〉

〈すると、麺が太くて縮みがありユニークで味もいいということで、福島県内だけではあるが、民放のテレビ番組で取り上げられることになる。(略)富山さんによればその後1年間で、テレビでおよそ50回放送され、週刊誌や旅行雑誌でも頻繁に取り上げられ、一気に『喜多方ラーメン』の名は全国に知られるようになっていく。〉


大和川酒造。「北方風土館」として江戸以降の蔵を公開

あべ食堂の中華そば。ちぢれ麺に醤油味のスープが合う

〈当時の市長から「他の業界からえこひいきじゃないかと文句がきたら俺が責任をもつから、早速ラーメン会を結成して業界の充実を図れ」という命が下る。(略)「喜多方ラーメン」というブランドも、蔵を観に来た観光客のためにという土台があって、初めて世に出ることができたというわけだ。〉


【住所】福島県喜多方市一丁目、二丁目、三丁目
【公開施設】甲斐本家蔵座敷(※東日本大震災の影響で春〜秋のみ開館)、大和川酒造・北方風土館、喜多方蔵座敷美術館
【参考資料】
『日本一の蔵めぐり 会津喜多方の迷宮(ラビリンス)』須磨章著、三五館、2008年

2013年6月3日撮影


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