手向
とうげ
茅屋根が伝える聖的なもの
手向は出羽三山のひとつ、羽黒山の門前町。かつては全戸が修験者の営む宿坊で、いまも30軒近くの宿坊が伝統を守っています。 |
【1】羽黒山門前には、はさみや鎌などの金物を使わずに茅屋根を葺く伝統があります。しかしいまや茅葺き建築は片手で数えられるほどしかありません。茅屋根の減少とともに、こうした伝統も消えてしまうのでしょうか。 |
6世紀に修験道場として開かれ、江戸時代に多くの参詣者を集めた出羽三山。各地から訪れる参詣者に宿泊所を提供し、道中の案内を買って出たのが修験者で、三山の入口にあたる羽黒山麓に彼らの集落が形成されました。当地の修験集落には2つあり、羽黒山内に肉食・妻帯をしない「清僧修験」が、山門の外の手向地区に「妻帯修験」が集住しました。 |
羽黒山随神門。手向はこの門前の集落 |
手向の路地裏 |
明治5(1872)年に修験禁止令が出されると清僧修験はすべて廃され、300軒を数えた妻帯修験も40軒ほどに激減しました。生き残った修験者は1879(明治12)年に神職となり、その後も歴史を受け継いで、いまに至っています。 |
手向では現在、30軒近くの宿坊が営業を続けています。現役の坊であるため建て直された家も見られますが、昔のままの木造の建物も多く、それらは大小ふたつの入口をもつのが特徴です。参詣者の出入口(聖的な境界)と通用口(俗的な境界)とで使い分けているのでしょうか。 |
規模の大きな大進坊 |
茅葺きの坊、橋本坊 |
茅葺きの坊は2軒を残すのみです。この地方では茅屋根を葺く際、はさみや鎌を使わないという風習があります。羽黒山頂の三神合祭殿の屋根葺きのとき、「神の上で金物を使う」ことがタブー視されたためですが、民間建築でも同様の手法を採り入れているのがおもしろいですね。(※ただし現存する2軒が同様の手法で葺かれたものかは確認できていません) |
参考資料には、「茅葺きに使用する道具はガンギ、クマデ、アゲボウ、マッカボウなどを使い…(略)…手間のかかる作業であった」とありました。クマデは分かりますね。ガンギは茅を叩いてならす木槌のような道具のこと。アゲボウは、足場で作業する職人に茅をあげる棒でしょうか。マッカボウについては手がかりがなく、分かりませんでした。 |
茅葺きの坊、太田坊 |
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茅屋根とともに手向の町並みを特徴づけるのが、棟木に掛けられた延し綱です。これは年越しの例祭で使われた大たいまつを再利用したもの。大たいまつは邪悪の象徴とされるツツガムシをかたどったもので、神事ののちに解体されます。ばらされた綱は参拝者に配られ、持ち帰った人が厄除けとして棟木に掛けているのです。 |
延し綱は古くなると泥に混ぜ、土壁の原料としました。再々利用されてもなお、家を守ってくれるのですね。しかし手向には土壁の家はほとんど現存しません。こうした風習も、家のかたちの変容とともに廃れてしまったようです。
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宿坊街の町並み |