芳泉町
ほうせんまち

町並みに見る質素倹約

米沢市の周縁部にある芳泉町には江戸時代、下級武士が暮らしました。このあたりには東北地方でおなじみの曲がり家が多く残り、生垣の続く閑静な家並みが見られます。

【1】芳泉町には茅葺きの武家屋敷が多く残されています。
【2】柿の木です。屋敷にはほかにも栗やりんごなど食用の樹が植えられ、実用にかなった町づくりが行われました。
【3】高さ1メートルほどのウコギの生垣が芳泉町のシンボル(雪に埋もれていますが…)。不作時にはウコギの根を食用としました。かの上杉鷹山(ようざん)が奨励した、質素・倹約の象徴です。

米沢の歴史は慶長6(1601)年、会津より減封された上杉景勝が入城したことに始まります。折から城下町の整備が進みましたが、中心街ではすべての家臣団を収容しきれず、下級武士は周縁部に集住させました。そのひとつが芳泉町です。


曲がり家が並ぶ。奥の家は茅屋根

芳泉町は東北地方でも指折りの古い町並みで、かつて国の重要伝統的建造物群保存地区選定をめざして調査も行われました。結局、選定には至らず、その後取り壊された家もありましたが、2014年の訪問時においても、トタンで覆われていない茅屋根の家を8棟確認できました。

芳泉町の家は短冊状の細長い土地をもち、道路寄りに主屋を建てます。主屋はほとんどが曲がり家で、裏側は水路を挟んで畑とします。当時の半士半農の暮らしぶりをいまに伝える土地利用です。敷地内には柿や栗など、食用の実がなる樹が植えられました。


ウコギの生垣

植栽のうち芳泉町を――さらにいえば米沢を――象徴するのがウコギの生垣です。ウコギはウドやタラノキの近縁種で、春先には新芽が食用に供されたほか、不作の年は根を食しました。もともと全国の城下町で生垣に使われていましたが、米沢のあたりはウコギの生育に適した土地だったことに加え、質素・倹約を旨とした上杉鷹山が奨励したこともあり、広範囲に残されたのです。


【住所】山形県米沢市芳泉町
【公開施設】なし
【参考資料】
『南原地区芳泉町 伝統的建造物群保存対策調査報告書』米沢市教育委員会、1996年
「米沢観光ガイドブック 上杉の城下町米沢」米沢市観光課、2014年(第5版)

2014年12月28日撮


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