手這坂
てはいざか

奥ゆかしげに住めるひと村

江戸時代の旅行家、菅江真澄が「中国にあると聞く桃源郷のようだ」と記した集落が手這坂です。生活に不便なことから2000年に無住となりましたが、それから10年以上の時をへたいま、再び人の住む集落となっています。

【1】手這坂の民家はすべて板張り。見事なまでに土壁が使われていません。しかも、板は横板ではなく縦に並べられています。こうした工法は日本の伝統民家ではかなりの少数派だと思います。
【2】秋田県はL字平面の中門造りの本場ですが、手這坂の家は突出部のない直家(すごや)です。
【3】菅江真澄は桃の花の季節に手這坂を訪れ、「桃源郷のよう」と記しました。当時の風景を再現しようと、村おこしの一環で桃の木が植えられました。

手這坂は白神山地に源を発する水沢川沿いの小集落。江戸時代の旅行家、菅江真澄は文化4(1807)年の春にここを訪れ、紀行文『おがらの滝』に次のように記しました。
〈桃の花盛りと聞いて、しばらく行くと手這坂というところにでた。家が四、五軒、川岸の桃の花園にかくれてあった。この坂の上にたって眺めると、まことに流れをさかのぼって洞のうちのかくれ里をもとめたという中国の話も、このようであったろうと思われた。…略…、ある家で水を乞うと、濁酒を提(ひさげ)に入れてすすめてくれた。老いた男女が咳ばらいなどして話しているさまをみると、いちだんと仙人めいた心地になった。〉


画面左側に1軒、右の木立の中にも1軒の家がある


手這坂の民家

真澄はまた、こんな歌を残しています。
ここに誰世々咲く桃にかくろひておくゆかしげに栖(す)めるひと村
今回参照した『菅江真澄遊覧記』の編訳者、宮本常一は、「この紀行文には、あまり上手でない歌が多数に挿入されており、…略…、この書物をとりつきにくいものにして、一般への普及をおくらせていた」と酷評していますが、それでもこの歌は手這坂の情景を詠み込んだ秀歌だと思います。

さて、真澄を仙人めいた心地にさせた手這坂は江戸期以降、4、5戸の小集落として現在まで命脈を保ってきましたが、2000年に無人化しました。その後は集落再生プロジェクトが始動し、ボランティア団体「手這坂活用研究会」が空き家のメンテナンスや自然体験イベントを行うようになりました。


緑と調和した茅屋根のたたずまい


4戸のうち2戸は屋根裏に小窓をもつ。養蚕に使われたのだろうか

手這坂は茅葺き民家の集落で、現在も5戸のうち4戸が茅葺きです。(うち1戸は訪問後に倒壊)。これらはみな同じかたちをしていて、一部改変されている家もありますが、基本的には寄棟造り、平入りで、桁行5〜6間、梁間4間ほどの大きさです。
付属屋は見られませんでしたが、現存しないのか、もともと建てられていなかったのかは分かりません。屋根をかぶと造りとして壁に窓を開けた家もありましたが、これなどは養蚕に供したのでしょうか。

外見で変わっているのは壁の仕上げで、板壁になっています。これには手這坂の気候が関係しているそうです。
手這坂は一見、山深い土地にあるように見えますが、日本海からは5キロほどしか離れていません。冬期を中心に強い西風が吹き、吹雪になることもあります。壁を土で仕上げると塗れて傷んでしまうため、全面板張りとしているのだそうです。


外壁はすべて板。かなり変わった建て方だ



各家に設置されている平面図

手這坂活用研究会では現存4戸の平面図や建築年を略記した立て札を設置しましたが、茅屋根の維持までは手がまわらず、2013年に散会しました。

わたしが初めて訪れたときには、集落のもっとも北西にある1軒の大棟がかしいでいましたが、この家はその後の雪で倒壊してしまったそうです。しかし手這坂に未来がないかというと決してそんなことはなく、残された3軒の中には借り手がついたものもあります。


大棟がかしいだ空き家(現存せず)


晩秋に行われた茅刈り風景

一度無住になった集落に再び人を取り戻すことは容易ではありません。無住になるということは、その土地には尋常ならざる不便さ、不自由さがあるからです。
しかしそうした土地での暮らしを求める人がいることも事実であり、手這坂に新住民によるコミュニティが形成されれば、それは全国に先駆けるロールモデルになる可能性があります。いまは手這坂の動向を見守りたいと思います。


【住所】秋田県山本郡八峰町峰浜水沢字手這坂(地図
【公開施設】なし
【参考資料】
『菅江真澄遊覧記(1)(4)』菅江真澄著、内田武志・宮本常一編訳、平凡社ライブラリー、2000年
美の国秋田・桃源郷を行く

2013年7月15日、15年11月8日撮影


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