大潟村
おおがたむら

村と歩んだ三角屋根の50年

戦後、八郎潟(はちろうがた)の干拓事業により地上に姿を現した大潟村。統合や分割ではなく、まったく新しく生まれた日本で最後の自治体です。村内に集落は1カ所のみ。住宅のほか行政・経済・商業施設が集約され、総合中心地と呼ばれています。

【1】入植初期の農家は三角屋根が目印。平坦な干拓地に変化を与えるため、また、冬季の落雪を容易にするため、この形状が選ばれました。
【2】住宅地の道路は幹線から枝分かれしてループ状になっています。住民の車だけが走行し、子どもやお年寄りが暮らしやすい町にするための配慮です。
【3】住宅地の周囲には並木や緑地帯があり、防風・防雪帯や災害時の避難場所として機能しています。

大潟村は日本で2番目の湖だった八郎潟の干拓事業で生まれました。立村は1964(昭和39)年10月。すべてが人工的につくられ、自然地形はありません。住民は全国から移住を希望した農家で、自然発生的に成立した集落もなく、南北18キロ、東西11キロの干拓地における集落は、中西部に計画された「総合中心地」のみです。


かつての八郎潟の湖面を残した西部承水路

干拓地ならではの一直線の道

干拓地にいかにして集落を配置するかは事業開始時からの懸案で、当初は環状に8つの集落を設ける案が優勢でした。この案では各集落に小学校や商店を設けたうえで、8集落のうち3集落を中心集落と位置づけ、中学校、診療所、役場出張所などを設ける予定でした。
ところが計画の途中で1世帯あたりの農地を拡大することとなり、必然的に入植者の応募数が減ったこと、また、折からモータリゼーションが進み集落と圃場を近接させる必要性がなくなったことで、1集落案に落ち着きました。

初期の入居者住宅は画一的に設計されました。これには平屋と2階家があり、2階家は大きな三角屋根が特徴です。内部には当時としては珍しい水洗トイレまでありましたが、実際に住んでみると狭かったそうで、ほとんどすべての家がその後増改築され、当初の名残りをとどめるものはわずかです。


現存する三角屋根の家もみな増築されている


三角屋根が連続する一画


住宅地に隣接して緑地帯が設けられている

総合中心地を取り巻く農業機械格納庫群

日本の伝統的な農家は主屋のほか、納屋、倉、馬屋など多くの付属屋をもっています。ところが大潟村の総合中心地は居住のみを目的とした集落であり、農機具置き場や作業場、圃場などは集落の周縁部に設けられました。住民は自宅から圃場まで自動車で“通勤”するため、付属屋は車庫があるのみ。こうした、戦後日本のスタンダードである職住分離の生活が適用された農村として、大潟村は特異な存在です。

大潟村の農地と初期住宅は、伝統的な農村とは一線を画していますが、すでに立村から50年が経過し、これらの景観も文化財の仲間入りを果たしたように思います。干拓から入植、そして日本有数の出生率を維持するまでになった「持続可能な自治体」の歴史を語る証人として、何らかの保存策を取るべきではないかと、部外者ながら感じました。


新築の家からは初期農家へのオマージュを感じる


平屋の住宅が並ぶ北1丁目2番地


情報発信者地区。集落内で唯一の曲線道路


【住所】秋田県南秋田郡大潟村(第一期入植地の場所
【公開施設】なし
【参考資料】
「八郎潟中央干拓地『大潟村』における農村集落の建設と村づくりの変遷」秋田県大潟村、2011年(PDF

2015年11月8日撮


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