角間川
かくまがわ

川が育てた地主街

角間川は雄物(おもの)川と旧横手川の合流点に位置する町。地の利を生かし、江戸時代から明治時代にかけて物資輸送の拠点として賑わいました。その時代に財を築いた地主の豪邸街が残されています。

【1】メインストリートの西側が「地主街」と呼ばれ、江戸〜明治時代、舟運で財をなした商人が家を建てました。
【2】塀の中に建つのは大型の入母屋造りの家です。
【3】道路の東側には商家が並びます。この町割は明治時代から変わっていません。商家の中にも、切妻屋根の古い建物が散見されます。

雄物川とその支流、旧横手川の合流点に位置する町が角間川です。江戸時代に波止場や土蔵街が整備され、秋田内陸で産した米や秋田杉の輸送拠点として発展しました。その繁栄は明治以降も衰えることはなく、財をなした商人たちは次々に豪邸を建設。こうして、いまに至るまで「地主街」と呼ばれる町並みができあがりました。


角間川地主街。板塀が連なる豪邸が3軒残る

地主街の邸宅

しかし角間川の商都としての歴史は唐突に終わります。1905(明治38)年の奥羽本線開通によって舟運の時代に幕が下ろされ、しかも鉄路から大きく離れた角間川は一介の小村になってしまいました。しかし、それが幸いしてか、目立った開発も行われなかった角間川中心部には、いまも黄金時代をしのばせる3軒の地主邸宅が並び立っています。


地主邸宅は屋敷林も立派だ


地主街の町並み

浜倉。屋根を支える斜めの支柱は雪国ならではの構造

地主街とともに角間川の歴史を伝えるのが浜倉です。町の北西、雄物川の岸辺近くに、1872(明治5)年に建てられた2棟が残っています。角間川に集まった品々は、一度はこの蔵に保管され、その後秋田各地へ、さらには全国各地へと運ばれていきました。

かつてはこうした蔵が10棟以上残り、巨大な土蔵街を形成していたそうです。最後に残った2棟も2011年の東日本大震災の余震で壁がはがれ落ちるなどの被害が出ましたが、およそ1400万円の予算をあてて修復されました。
いまでは向かって左の土蔵が地域の集会所として、右の土蔵が資料展示室として使われています。


土蔵の前面には2メートルほどの深い庇が付く


地主街(右奥)に向き合って商家が並ぶ

角間川の町割は、道路の西が地主街、東が商家群と、はっきり区別されています。雄物川が流れる西側のほうが舟運に有利で、必然的にこちら側に地主が集住したということなのでしょう。
この町割は江戸時代にさかのぼり、いまだに継承されています。地主街に向き合う商家の中にも歴史的な建物が多く、妻面に柱と貫を見せて装飾的にしたものや、土蔵造りのものなど、さまざまな形式が見られました。


土蔵造りの商家


妻面の意匠がすぐれる商家


【住所】秋田県大仙市角間川町(地図
【公開施設】浜倉

2013年2月11日撮影


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