登米
とよま
武家町×商家町×洋館群
江戸時代〜昭和戦前の木造建築が多く残り、「みやぎの明治村」を自称する登米町。そのキャッチフレーズにたがわず、町全体が屋外博物館のような雰囲気です。 |
【1】登米は第一義的には武家町です。身を隠すための武者隠し、道路を鍵型に曲げた枡形(ますがた)のような防衛構造もいまに残ります。 |
登米では武家町、商家町、洋館群という3つの要素がバランスよく同居しています。 |
屋敷を区切る白壁の道。武家町らしい一角 |
旧鈴木家住宅(春蘭亭) |
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茅葺きの建築も比較的多く残っている |
この武家町の東側、北上川沿いには町場が整備されました。江戸時代、仙台藩(伊達藩)は、江戸で食された米の3分の1をまかないました。北上川の上流にある水沢や前沢周辺は重要な米どころであり、そうした歴史を思うと、当時の登米が物資集散地としていかに賑わったか想像できます。 |
蔵造りの商家と看板建築が向かい合う |
手前が1862(文久2)年の商家、奥が1910(明治43)年の商家 |
蔵造りの長屋も残されている |
登米の町歩きで忘れてはならないのが洋館。その筆頭が1888(明治21)年に完成した旧登米高等尋常小学校校舎です。当時、日本につくられた学校建築の多くは和洋折衷様式で、ごてごてとした装飾が施されるのが常でした。しかしこの校舎は装飾が控えめで、学校建築のデザインの過渡期にあること、また、地方における学校建築様式の好例であることから、国の重要文化財に指定されています。 | 旧登米高等尋常小学校校舎(現・教育資料館) |
旧登米警察署庁舎(現・警察資料館) |
この学校が建てられた翌年、1889(明治22)年に建設されたのが旧登米警察署庁舎です。中央にバルコニーをもち、外壁は下見板張り、窓は上げ下げ窓で、全体の印象は旧登米高等尋常小学校に非常に近いものがあります。それもそのはず、両建築は同じ人物の設計によるものでした。設計者・山添喜三郎は新潟生まれの船大工で、東京で建築を学んだのち、宮城県技師に採用されたそうです。 |
2013年9月14日、14年5月19日撮影 |