登米
とよま

武家町×商家町×洋館群

江戸時代〜昭和戦前の木造建築が多く残り、「みやぎの明治村」を自称する登米町。そのキャッチフレーズにたがわず、町全体が屋外博物館のような雰囲気です。

【1】登米は第一義的には武家町です。身を隠すための武者隠し、道路を鍵型に曲げた枡形(ますがた)のような防衛構造もいまに残ります。
【2】武家町と町人町が隣接するのが登米の町割り。ここから先に古い商家が連なる町人町があります。
【3】明治以降に建てられた洋館が、町並みにアクセントを加えています。

登米では武家町、商家町、洋館群という3つの要素がバランスよく同居しています。
その中でも登米は第一義的には武家町であり、江戸時代に白石氏の居館・寺池館の城下町として整備されました。白石氏は慶長9(1604)年に水沢(岩手県)より当地に移封され、のち天和2(1683)年以降は伊達姓を許されて「登米伊達氏」と呼ばれるようになります。
観光の拠点である「とよま観光物産センター」の南から始まる通りが、登米伊達家の家中屋敷が並んだ一画。両側に武家屋敷門が並び、道路は途中で鍵型となり、武家町の姿を色濃く残しています。


屋敷を区切る白壁の道。武家町らしい一角

旧鈴木家住宅(春蘭亭)


武家町の枡形


熊谷邸の門はおもしろいデザイン。屋根はスレート葺き


茅葺きの建築も比較的多く残っている

この武家町の東側、北上川沿いには町場が整備されました。江戸時代、仙台藩(伊達藩)は、江戸で食された米の3分の1をまかないました。北上川の上流にある水沢や前沢周辺は重要な米どころであり、そうした歴史を思うと、当時の登米が物資集散地としていかに賑わったか想像できます。
商家町では火災が頻発し、現在は明治以降の建造物がほとんどですが、立派な蔵造りの家が点在しています。


蔵造りの商家と看板建築が向かい合う

手前が1862(文久2)年の商家、奥が1910(明治43)年の商家

蔵造りの長屋も残されている
登米の町歩きで忘れてはならないのが洋館。その筆頭が1888(明治21)年に完成した旧登米高等尋常小学校校舎です。当時、日本につくられた学校建築の多くは和洋折衷様式で、ごてごてとした装飾が施されるのが常でした。しかしこの校舎は装飾が控えめで、学校建築のデザインの過渡期にあること、また、地方における学校建築様式の好例であることから、国の重要文化財に指定されています。
旧登米高等尋常小学校校舎(現・教育資料館)

旧登米警察署庁舎(現・警察資料館)
この学校が建てられた翌年、1889(明治22)年に建設されたのが旧登米警察署庁舎です。中央にバルコニーをもち、外壁は下見板張り、窓は上げ下げ窓で、全体の印象は旧登米高等尋常小学校に非常に近いものがあります。それもそのはず、両建築は同じ人物の設計によるものでした。設計者・山添喜三郎は新潟生まれの船大工で、東京で建築を学んだのち、宮城県技師に採用されたそうです。


【住所】宮城県登米市登米
【公開施設】教育資料館(旧登米高等尋常小学校校舎)、警察資料館(旧登米警察署庁舎)、水沢県庁記念館(旧水沢県庁庁舎)、春蘭亭(旧鈴木家住宅)、清野邸*、池田邸*、ヤマカノ醸造*
*は要予約
【参考資料】
『角川日本地名大辞典(4)宮城県』角川書店、1979年

2013年9月14日、14年5月19日撮影


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