世田米
せたまい

家財を守った蔵の連なり

世田米は街道の宿駅として発展する一方、度重なる火災に悩まされてきました。その結果生まれたのが、川沿いに連なる蔵並みです。

【1】江戸時代、頻発した火災から家財を守るため、蔵は各家の敷地の後方、気仙川の岸辺に建てられました。
【2】土蔵は腰壁をなまこ壁とし、四隅をせり上げています。せり上げたのは風雪で傷みやすい角を守るためですが、しだいに装飾効果が狙われるようになりました。
【3】東日本大震災で外壁が崩落した土蔵もありますが、すでに修復は完了していました。夏祭りのライトアップも、震災前と同じように行われていました。

世田米を流れる気仙川は、古くから砂金の産地として知られたところ。当地の金は中尊寺金色堂にも使われたといわれています。織豊期には砂金採集を管理する集落が形成され、これが世田米の町並みの起こりとなりました。


盛街道沿いの町並み

出桁(だしげた)造りの家は岩手県南部に多く、気仙大工の手法といわれる

世田米は盛街道と高田街道の分岐点にある宿駅としても発展。とくに黒沢尻(現・北上市中心部)などの内陸部と、大船渡などの沿岸部とを結ぶ流通の拠点として、重要な位置にありました。現在も2階建ての豪壮な商家が並び、モータリゼーション以前に栄えた町の面影を残しています。


切妻造り、本2階建ての家が並ぶ

江戸期を通じて交通の要衝として発展した世田米でしたが、当地の人々を悩ませたのが度重なる火災でした。記録によると三度の大火があり、享保5(1720)年に122戸を焼失、元文2(1737)年に130戸を焼失、天保3(1832)年には記録に「町家をことごとく焼く猛火」と記録される火災が発生しました。


敷地の後方に蔵を建てる

腰壁をなまこ壁としたり、化粧石を張るものが多い

こうした歴史を経て、世田米では街道沿いに町家を並べ、各家の敷地後方に土蔵を建てるようになりました。火災が起きても土蔵が類焼するのを避けるためです。
同様の配置は全国でも見られますが、世田米の蔵は隅部でなまこ壁をせり上げているのが独特。東北地方に多い造作で、雨や雪が吹き込んでも土壁が傷まないようにしています。


気仙川に面する土蔵


【住所】岩手県気仙郡住田町世田米世田米駅(地図
【公開施設】なし
【参考資料】
『角川日本地名大辞典(3)岩手県』角川書店、1985年

2015年8月2日撮


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