小友
おとも

名工の郷の名建築

陸前高田市の最東端にある小友町は、出稼ぎ大工集団・気仙大工の発祥地とされる地域。現在も気仙大工が建てた大型民家が残り、その密度は気仙地方でも屈指のものだと思います。


【1】町を代表する気仙大工の家を見せていただきました。気仙大工の家では必ず垂木(たるき)を入れています。垂木とは屋根を支える部材のことですが、出窓や雨戸袋の庇にもびっしりと入れた垂木が、気仙大工の腕の見せどころです。
【2】この屋根の垂木、放射状に配されているのがお分かりでしょうか。扇垂木といい、寺院建築で使われるもので、民家ではあまり採用例がありません。
【3】気仙大工は土蔵も手がけました。なまこ壁や庇の装飾に特徴があります。

気仙大工の起源についてはつまびらかにされておらず、こうした集団がいつ生まれたのか諸説があります。インターネット上には、有史以来組織されていたという記述もありますが、伊藤ていじの『民家は生きてきた』を引くと「このような大規模な大工集団ができたのは、実は明治以後」とあります。


気仙大工の家と土蔵(小友町谷地館)

現存最長、桁行14間半のK家住宅(小友町衣地)

同書によると明治初期の凶作の影響で、気仙地方の農家の次男・三男は大工として出稼ぎをしました。出稼ぎ先は岩手県内が大半でしたが、宮城や北海道、東京、大阪まで出かけた者も多く、盆休みに帰省した折に各人が情報交換をして、しだいに混成的な大工技術が確立されました。これが気仙大工の始まりです。

伊藤ていじは「こうした気仙大工が大量に輩出されたのには、それ相応の素地があったと思われるが、今はわからない」と書いています。
しかしこれを受けて高橋恒夫・東北工業大学教授の『気仙大工 東北の大工集団』を読むと、真っ向から対立する説明がなされていました。いわく、気仙大工の建築は18世紀には存在していた、と。


まるで寺院のようだが、民家である(小友町谷地館)

装飾された土蔵(小友町谷地館)

高橋教授は文書や棟札をもとに大工の出身地や建築年を整理しています。これにより気仙大工は農家の兼業だったこと、また、多くの大工が社寺建築も経験していたことなどが判明しました。(詳しくは下記参考資料をご覧ください)

気仙大工と社寺建築との関係をよく物語るのが、彼らが手がけた家に見られる、扇垂木やくり型(水平材の先端の装飾)などの寺院建築風の特徴です。伊藤ていじは「藩主流派の堂営大工とは無縁であったと考えたほうがよい」と述べていますが、高橋教授の調査によると、口伝や棟札から、ひとりの大工が農家と社寺の両方を手がけた例があることが明らかになりました。


玄関の破風に寺院建築でおなじみの懸魚(げぎょ)を入れる(小友町谷地館)

気仙大工左官伝承館(小友町茗荷)

気仙大工の発祥地であり、草創期に多くの職人を輩出したのが小友町でした。ここにはいまも歴史的な民家建築が多数残され、1992年には気仙大工左官伝承館が建設されました。建設によって彼らの技術を継承すること、また、建設された民家と蔵を一般公開することで、気仙大工の歴史と伝統を普及することが目的でした。


伝承館の土間。建材の95%は気仙地方の杉


伝承館の座敷。建具や欄間なども気仙大工の仕事

伝承館は山間部にあるため、東日本大震災による津波の被害をまぬかれました。しかし本震のときには激しく揺れ、「屋根が浮き上がって、いままさに倒れるかに思えた」そうです。しかし揺れが収まるとすべてはもとに戻り、建具には寸分の狂いもありませんでした。土壁に4、5カ所ほど亀裂が入ったのが、唯一の被害だったといいます。「日本建築は地震に強い」といいますが、思いがけずそれを証明した格好になったようです。


伝承館の屋根まわり

気仙大工の家は小友町のほかにも陸前高田市の広範囲に現存しています。多くが居住中で、プライバシー保護の観点から広報するのは難しいと思いますが、震災を生き抜いた地域の宝として、もう少し周知してもいいのではないかと感じました。
今回の旅でも、家主の方から「どうぞ見て行って」と言われることもしばしばでした。気仙大工は地元の誇りなのですね。


入母屋屋根の豪壮な家(陸前高田市米崎町)


数少ない茅葺きの家(陸前高田市竹駒町)


この家ももとは茅葺きだったのだろう(陸前高田市米崎町)


【住所】岩手県陸前高田市小友町(伝承館の所在地図
【公開施設】気仙大工左官伝承館
【参考資料】
『民家は生きてきた』伊藤ていじ著、鹿島出版会、2013年(復刻)
『INAX ALBUM (6) 気仙大工 東北の大工集団』高橋恒夫著、INAX出版、1992年

2014年8月3日撮


戻る