水沢
みずさわ
塀が境する雪の道
水沢は伊達家の家臣、留守家の城下町として発展しました。古い町並みは断片化していますが、往時の武家屋敷の塀や門が多く残されています。 |
【1】日高小路。水沢では東西方向に走る数本の小路が武家屋敷地となりました。 |
水沢は寛永6(1629)年に留守宗利が金ヶ崎から水沢城へ移封されたことで、本格的に城下町として整備されました。水沢城は現在、奥州市役所があるあたりに築かれ、城の東から南にかけて武家町が、さらにその東側に商人・職人町が整備されました。 |
かつての町人地、立町の町並み |
新小路の武家屋敷 |
商人・職人町は駅前の繁華街となったため古い町並みはあまり残されていませんが、武家町では数軒の武家屋敷を見ることができます。しかし町全体でみれば宅地化が進んでおり、連続性のある町並みはそれほど見られません。 |
往時の面影をよく残すのが日高小路と吉小路です。日高小路には武家屋敷の安倍家があり、白しっくいの土塀がめぐらされています。この安倍家は武家門もしっくいで塗りごめられ、一風変わった姿をしていました。主屋は非公開ですが、明治期に建て直された数寄屋風とのこと。水沢では同様に明治以降に建て直された武家住宅が多く、八幡家(大手町)や高橋家(大畑小路)も主屋は明治時代の和洋折衷建築です。 |
日高小路の町並み |
安倍家。門はしっくいで塗りごめる |
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内田家旧宅外観 |
吉小路では2棟の武家屋敷が一般公開されています。内田家旧宅は茅葺きの薬医門と主屋をもつ大型の屋敷で、主屋は18世紀後半に建てられたもの。門をくぐってすぐのところに式台玄関がある格調高い家で、土間や台所などの生活空間は裏側にまとめられています。 |
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内田家旧宅の奥座敷 |
もうひとつの公開施設、後藤新平旧宅は18世紀中ごろの建築。こちらも門の正面に式台玄関がありますが、途中に笠塀を立て、正面からは見通せないようにしています。 ちなみに後藤新平は留守家の奥小姓の出身の政治家で、関東大震災後は帝都復興院の総裁として東京市の復興計画を策定しました。 |
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大手通りに面した武家門と板塀 |