本寺
ほんでら

村は古絵図のままに

一関市の本寺地区は中世、平泉の中尊寺が所有する荘園でした。骨寺村と呼ばれた当時、この地域を描いた絵図が残されており、現在の景観とぴたり一致することで知られています。

【1】本寺は磐井川の渓谷に開けた村で、四方を山がめぐります。山並みは荘園の境界をなし、中世の絵図にも描き込まれました。
【2】山に囲まれた平地は一面の田んぼ。中世の絵図にも「田」と書き込まれています。
【3】民家は散村的に存在します。主屋と付属屋を並べて建てたものが多く、冬の季節風にそなえ、西にイグネと呼ばれる屋敷林をつくります。

現在の日本には、歴史にもまれながらも変わることのない町割を維持する場所がたくさんあります。京都の道路網は平安時代にさかのぼりますし、東京下町の町割も江戸時代のまま変わりません。しかし、景観も不変の場所となると限られてしまいます。一関市の本寺は、そんな数少ない場所のひとつです。


木立を抜けると本寺の田園が広がる

骨寺村絵図・仏神絵図

本寺のかつての姿は、鎌倉時代後期のものと推定される陸奥国骨寺村絵図(中尊寺蔵)に描かれています。この絵図は在家絵図(詳細絵図)と仏神絵図(簡略絵図)の2点からなり、いずれも本寺一帯を東から西へ鳥瞰して描いています。絵図の作成には、この付近の地理を把握するという目的があったと思われ、山並みや川筋が正確に描写されています。

現在の本寺は、700年前に描かれたのとほとんど変わらない風景を継承することから、2005年に国の重要文化的景観に選定されました。不変の景観を最も実感できるのが、要害橋からの眺め。西に見える山並みは、絵図ではかなりデフォルメされているものの、同じものであることが分かります。足元を本寺川が流れ、両岸に田んぼが広がる風景も絵図のままです。


要害橋から西を見る

骨寺村絵図・在家絵図(部分)

集落景観としてみても、700年前からほとんど変化していません。絵図では、田と屋敷がセットで描かれ、それが点在しています(左図)。

こうした農家は中世には「田屋敷」と呼ばれました。現在でも本寺川の両岸に田屋敷が点在しています。


現在の田屋敷。屋敷林が目印

蛇行するあぜ道。景観の生きた化石だ

また、田んぼの区画もほとんど変わっていないと考えられています。本寺には不整形の田が多く、あぜ道はどれも極端に蛇行しています。これほど広大な平地でありながら区画整理されなかったことは、もはや奇跡というほかありません。

農家の建築配置を見ると、主屋の横に納屋や馬屋を並べたものが多いようです。身を寄せ合って、冬の季節風を耐え抜こうという意思を感じる景観です。


山裾に古民家が点在する

トタンで覆われた茅葺きの家


イグネに守られた農家


【住所】岩手県一関市本寺(地図
【公開施設】なし
【参考資料】
パンフレット「骨寺村荘園遺跡散策マップ」一関市教育委員会骨寺荘園室
パンフレット「中世の風景 未来への遺産」一関市教育委員会骨寺荘園室、2015年
※当ページの絵図は上記資料より転載しました

2015年8月3日撮


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