古佐井
こさい

蝦夷への入り口

佐井村の中心部は古佐井と大佐井の2地区に分かれます。古佐井は江戸時代に蝦夷渡航のための港町となり、歴史を語る古民家が多数見られます。

【1】町並みの後ろに古佐井川が流れます。ここは河口の港町という地の利をいかし、早くから発展しました。
【2】切妻造り、妻入りの家が並んでいます。このお宅は本陣を務めたN家住宅です。
【3】多くの家で間口いっぱいに庇を設けています。この庇はコモヘと呼ばれます。


古佐井の家並み

佐井は元禄12(1699)年、盛岡藩(南部藩)が下北半島に置いた田名部(たなぶ)七ヶ湊のひとつに数えられた港町。以来、潮待ちの港として、多くの廻船が寄港するようになりました。
古佐井で積み降ろしされた産品は、上方方面に向かう上り荷ではヒノキ材や海産物、他地域からの下り荷では米穀類が主なところでした。交易範囲は広く、北は蝦夷の松前、南は瀬戸内、東海道にまで及んだといいます。
寛政年間(1789〜1801)には蝦夷警備の関係から、海上を監視する遠見番所が設けられました。続く享和年間(1801〜04)には箱館(現・函館)までの渡航の地として、幕府の指定を受けています。古佐井から函館までの直線距離はおよそ40キロ。今回の旅路でも、佐井村の海岸から北海道が間近く見えました。ここはまさに蝦夷への入り口だったのですね。
北海道の島影を望む


N家住宅

政治・経済の両面で重要な港町だった古佐井には、廻船問屋のほか本陣も置かれました。ここで本陣を務めたN家住宅は、いまも堂々たる姿で立ちつくしています。しかし見たところ空き家のようで、今後が気がかりです。
このほか古佐井には切妻造り、妻入りの古民家が多く残されています。妻側にコモヘと呼ばれる庇を付けた家もたくさん見られました。
明治以降には2階建ての家も普及したそうですが、それらの家では2階開口部に手すりや雨戸袋など、ていねいな造作が施されていました。

左写真の家の2階の造作

路地裏の古民家


町並みでひときわ目立った家


切妻の家並み


【住所】青森県下北郡佐井村佐井(字古佐井)(地図
【公開施設】なし
【参考資料】
『角川日本地名大辞典(2)青森県』角川書店、1985年
「本陣能登家住宅 下北佐井湊 町並調査報告 その1」中島千鶴・中尾七重・玉井哲雄著、『日本建築学会大会学術講演梗概集』2002年8月所収
「佐井の町家 下北佐井湊 町並調査報告 その2」中尾七重・中島千鶴・玉井哲雄著、『日本建築学会大会学術講演梗概集』2002年8月所収

2016年9月18日撮影


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