礼受
れうけ

いまもニシンを待っているのか

北海道にニシンの大群が訪れなくなって、はや半世紀。それでも礼受では日本海に向かってニシン番屋が対峙し続けています。「いつニシンの大群が訪れても、すぐに漁に出られる」とでも言わんばかりの姿で。

【1】海を見つめて番屋が建ちます。番屋では網元と船頭、ヤン衆(乗組員)が共同生活を営みました。
【2】番屋は敷地がとても広く、船倉や網倉など複数の付属建築が建ちます。それぞれの建物の間の空間は干し場として使われました。
【3】浜に最も近い建物は、沖であげられたニシンの一時保管庫です。

群来(くき)と呼ばれるニシンの大群は、北海道の日本海岸に莫大な富をもたらしましたが、その終焉も唐突でした。北海道各地で戦後10年前後のうちに群来が見られなくなり、礼受でも1957(昭和32)年を最後にニシン漁は休漁したままです。


国道より一段低く、身を隠すように保管庫が建てられている
礼受に残る佐賀家番屋は、番屋のほか一連の付属屋と漁撈用具一式が保存された、北海道でも稀な文化財です。かの重要文化財・花田家番屋(留萌郡小平町)も、現存するのは主屋(番屋)だけですから、佐賀家がいかに貴重な存在であるかがうかがえます。
佐賀家が当地でニシン漁場を開いたのは弘化元(1844)年のこと。最盛期には12カ統の漁場をもちました。統(とう)は漁場の単位で、1統は幅54メートル、奥行きは無制限。1統につき建網(たてあみ)を1基設け、20〜30人ほどのヤン衆が作業にあたりました。
主屋(番屋)は向かって右が網元・佐賀家の居住空間、左が船頭やヤン衆の居住空間になってました。建築年は未詳ですが、江戸末期から明治初期にかけてのものと見られています。

佐賀家番屋

佐賀家の船倉(左)と、1903(明治36)年築のトタ倉
番屋の向かいには沖あげされた生ニシンを保管したローカが建ち、番屋の南50メートルほどのところではニシンかすなどの製品を保管したトタ倉が、番屋とほぼ同規模の威容を誇っています。
さらに番屋の後方70メートルの丘の中腹には漁業信仰にかかわる稲荷社が祀られています。佐賀家では居住、漁撈、生産、信仰にかかわるすべての建築物が、往時の景観のままに保存されているのです。
関家は1902(明治35)年ごろに礼受に漁場を開き、2カ統で操業しました。佐賀家に負けず、いまも良好な状態で保存されています。いつまた再びニシンの群来があっても、すぐにでも漁に出られそうなたたずまいでした。
この関家についてはインターネット上にいくつもの特集記事が載っていますので、ご興味のある方はぜひご覧になってください。
留萌人特集 関一彦さん
朝日新聞 まち歩きのススメ 建物編 関ニシン番屋

関家番屋

番屋のほかにも板張りの味わい深い建築が多い
ところで礼受訪問は、わたしの北海道旅行ではまったく予定していませんでした。留萌から増毛へバスで向かう途中で偶然、佐賀家と関家を目にし、「これはすごい!」と、帰路で下車して散策したのです。
帰ってから調べてみると、佐賀家も関家も非常に重要な番屋建築であることが分かり(しかも佐賀家のほうは、わたしがバイブルとしている『漁業漁村の歴史文化財産百選集』にも記載されていました^^;)、いいものを見てきたなぁという思いを新たにした次第です。


【住所】北海道留萌市礼受
【公開施設】なし
【参考資料】
漁場と漁具 佐賀家漁場国指定の史跡に答申(PDF)

2014年1月6日撮


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