小樽
おたる

運河は弧を描く

鉱物や森林資源が豊富なことから、かつて日本の無尽庫といわれた北海道。小樽はそれらの産物の積出港だった町です。大正時代に運河が完成すると、その重要性はゆるぎないものとなっていきました。

【1】全国でも珍しい曲がった運河。海を埋め立ててつくられたため、かつての海岸線に沿って弧を描いています。
【2】もともとの運河の幅は40メートルでしたが、埋め立てにより現在は20メートル。しかし、当初10メートルにまで狭める計画があったといいますから、これでもかなり保存されたほうです。
【3】石積みの倉庫に見えますが、木造建築の外壁に小樽軟石を張って仕上げています。工期を短縮し、かつ、防火性能を高めるための工夫です。小樽にはこうした「木骨石張り」「木骨レンガ張り」の建物が多く見られます。

小樽は北海道の開拓政策により、明治以降急速な発展を遂げました。幌内炭鉱の積出港に指定されると、1880(明治13)年には全国で3番目の鉄道である手宮線が開通*。また、石狩川の河口にあたることから港湾整備も着手され、1908(明治41)年に北防波堤が完成すると、大型船の停泊も可能になりました。
1923(大正12)年には小樽運河ができ、交通・流通の拠点としての利便性は格段に高まりました。道内の石炭や海産物、木材などは小樽に集積され、全国各地へ、さらに千島や樺太へと運ばれていったのです。
*このとき開通したのは手宮(小樽)〜札幌間。札幌〜幌内間の開通は2年後


かつて北海道の物資が集積した小樽運河

日本銀行旧小樽支店

鉄道と水運の拠点となった小樽には商社が続々と進出し、「北のウォール街」と呼ばれる一大金融街ができあがりました。最盛期には20ほどの銀行が集ったといいます。最初にこの地に進出したのが日本銀行で、1893(明治26)年のことでした。
1912(明治45)年に新築された日本銀行小樽支店は、東京駅の設計者でもある辰野金吾らによって設計されました。正面に4つの小ドームをそなえた、エキゾチックな外観をしています。建築費は40万円。これは日本銀行の中で東京本店、大阪支店に次ぐ費用だったそうです。

小樽運河は全長1,300メートルほどの比較的短い運河ですが、幅は完成当時には40メートルもありました。将来の船舶の大型化を見越して計画されたためだそうで、これほど幅広な運河は世界的にも珍しかったようです。
しかし戦後、陸上交通の時代に移ると運河は廃れてしまいました。ヘドロの溜まった運河は無用の長物と見なされるようになり、埋め立てて湾岸道路を建設する計画がもち上がりました。この計画は1966(昭和41)年に市議会で議決されました。


旧第一銀行小樽支店

旧百十三銀行小樽支店

計画が実行に移され、運河に面した倉庫の解体工事が始まると、人々は「慣れ親しんだ風景がなくなる」と危機感を抱き、「小樽運河を守る会」を結成します。最終的には彼らの要望が認められ、「運河幅を10メートルにする」という当初の事業規模は後退。運河を幅20メートルで残し、さらに水際に散策路が設けられることとなりました。

湾岸道路は1986(昭和61)年に開通。ガス灯が並び、石畳で舗装された散策路もお目見えしました。これを機に小樽は観光地として脚光を浴び、年間観光客数も増加。運河再生から20年で、約5倍の100万人に達しました。


旧小樽倉庫。手前の道路はかつては運河だった

堺町通りの歴史的町並み

これに合わせるように、色内通りや堺町通りなどに点在する歴史的建造物も再生され、美術館やレストラン、カフェ、ギャラリーなどとしてリニューアルされ、現在に至っています。


【住所】北海道小樽市色内
【公開施設】日本銀行金融資料館、旧日本郵船小樽支店
【参考資料】
『証言・町並み保存』西村幸夫・埒正浩編著、学芸出版社、2007年
『小樽運河ものがたり』田村喜子著、鹿島出版会、2009年

2004年6月30日撮影


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