函館西部
はこだてせいぶ

それぞれの和洋折衷

函館西部は函館山の北の麓に広がり、西洋館や教会など観光名所の多い地区。町並みは独特の和洋折衷様式で、和の要素の強い家から洋の要素の強い家まで、さまざまな様式が展開しています。

【1】和風のお宅。函館では主屋に蔵を連結させた家をよく見かけます。蔵は開口部を保護するように、木製の大きな出窓ですっぽり覆われています。
【2】函館らしい和洋折衷の家。1階を格子窓、2階を上げ下げ窓とするのが、函館では一般的ですが、このお宅の2階は出窓になっていますね。
【3】こちらは完全な洋館。下見板張りの外壁、玄関の三角屋根、2階の上げ下げ窓が見えます。

江戸幕府の鎖国体制を崩壊させた第一手が、安政元(1854)年の日米和親条約(神奈川条約)の締結でした。この条約では「アメリカ船が必要とする燃料や食糧の供給」「難破船や乗組員の救助」などとともに、「下田・箱館の2港を開き、領事を駐在させること」が定められました。こうして条約締結の翌年、箱館港が開港されたのです。(箱館は明治2〈1869〉年ごろから「函館」と表記されるようになりました)。


函館ハリストス正教会と函館の風景

函館山の麓の洋館群。左が函館市写真歴史館、奥が旧函館区公会堂
安政5(1858)年には日米修好通商条約が調印され、その後も同様の条約がオランダ、ロシア、英国、フランスとも締結されました。条約に基づき翌年に貿易港となったのが、神奈川(横浜)、長崎、箱館の3港でした。
箱館には万延元(1860)年にロシア領事館が建てられ、以後、外国公館や教会が建ち並ぶ政治・経済・文化の中心地となりました。
函館はしばしば大火にみまわれました。なかでも1878(明治11)年、79年、1907(明治40)年の大火は被害が甚大で、その都度、家はレンガを基調とした耐火建築として再建されました。
その後もたびたび火災は起こり、1934(昭和9)年の大火では市域の半分を焼失しました。西部地区はこのとき延焼を免れ、しかもその後は再興された東部地区が繁華街として発展したため、古い町並みが保存されることとなりました。

函館西部の町並み

太刀川米穀店。主屋は1901(明治34)年、左の応接室は1915(大正4)年
函館西部の町並みの特徴は「和洋折衷」。しかし、一言で折衷といってもその様子は家によってさまざまで、「和寄り」なものもあれば「洋寄り」なものもあります。
たとえば重要文化財の太刀川(たちかわ)米穀店は、「和70%、洋30%」といった感じでしょうか。構造はレンガ造りなのですが、しっくいで塗りごめられているため、外からはレンガが見えません。全体は土蔵風で立派な袖壁をもち、1階正面の3連アーチのみが洋風な意匠として見いだされます。
対照的に旧金森(かねもり)洋物店は「和30%、洋70%」くらいの印象です。太刀川米穀店と同じく全体は土蔵風ですが、建物の隅石(コーナーストーン)や2階の窓枠など、洋風の意匠が多く見られます。なお、この建物もしっくいの下の壁体にはレンガが使われています。
旧金森洋物店。1880(明治13)年

遺愛幼稚園。1913(大正2)年

中華会館。1910(明治43)年

波型の破風がおもしろい渡辺家住宅。1919(大正8)年

5棟のレンガ倉庫が並ぶ旧金森商船倉庫。1897(明治30)年


【住所】北海道函館市元町、末広町、弁天町、弥生町
【公開施設】市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)、旧相馬邸(※冬期休館)、旧函館区公会堂
【参考資料】
『詳説 日本史』石井進・笠原一男・児玉幸多・笹山晴生著、山川出版社、1996年
『未来へ続く歴史のまちなみ』全国伝統的建造物群保存地区協議会編著、ぎょうせい、1999年
『写真でみる民家大事典』柏書房、2005年

2004年6月28日、14年1月4日撮影


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